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「玄々堂」の由来について

玄々堂の医術は、豊臣秀吉、秀頼の御典医森宗長の次男、森玄孝より伝えられました。
森玄孝は文禄慶長の役の際に明に渡り医術を納めましたが、帰国後キリスト教徒の嫌疑を受け、官命により南総小糸郷に謫居の身になりました(謫居:官史が罪を問われて遠くに流されること。当時は秀吉、家康のキリシタン弾圧が行われていた)。
ここで身よりのない玄孝は鈴木家の手厚い庇護を受け、ついにその医術を鈴木家の祖に伝えたのです。

これが玄々堂の医を業とした始めであります。
鈴木家の家号を「玄々堂」と言います。鈴木家の祖は醍醐源氏と称し、第60代醍醐天皇代十皇子高明王と言いました。高明は正二位右大臣、左大臣を歴任し源姓を賜り、上総国小糸作に位田七拾町歩を賜ったと伝えられています。
六代の孫盛業は四位の侍従にて平安末期、先祖高明の賜った小糸作に土着し、当初は旧小糸村糸川宇東山に居を構え、家臣および多数の譜代と共に東山より出る豊富なわき水を利用して墾田開拓を行ったといいます。

「玄々堂」という家号は徳川時代初期に医術が伝えられた時期から称されていたかどうかはまだ明確になっていません。
老子道徳経に「これ玄と謂い、玄の又玄、衆妙の門なり」と言う文章があります。
つまり玄とは、絶対者の意味であり、玄の又玄とは、道の広大無限なる様子を言い表しておりこれが「玄々堂」家号の出典と現在では言われています。

鈴木家は以後、代々医業を業とし、近村遠郷に施していました。
数年医業が途絶えた時期もありましたが、明治に入り31代鈴木利三郎が済生学舎に学び、玄々堂の医業を再興いたしました。
明治36年鈴木利三郎は旧小糸村大月に開業し、八重原村法木作に出張所を置き、小糸地方はもちろん、小櫃、久留里、松岡亀山方面まで診療を行っていました。
「玄々堂の先生が病室に入ると部屋が明るくなる」と大変患者に信頼されていましたが、残念ながら昭和3年50歳の若さで惜しまれつつ他界されました。

しかしその後も医業は受け継がれ、現在、玄々堂君津病院として玄々堂の名は継承されております。

(以上君津市文化協会郷土研究史第3号 昭和61年11月発行「大槻村周辺の開拓と玄々堂の系譜:鈴木次郎」より抜粋、編集致しました)